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事実よりいい解釈をするのも偏見である

連休中、ねこまんが友達に会いたいというので、一緒に猫カフェに行ってきました。

前行った猫カフェでは、猫がまったく遊んでくれなかったので実は期待していなかったのですが…予想に反して数も態度もナイスな猫さんたち!

猫アレルギーなのでくしゃみをしつつも、肉球をほっぺたに当てさせていただいたりして満喫しました。

それにしても体は猫を拒否、心は猫を求めている。心身がこんなに不統一でいいのでしょうか。

500円のおやつを買うと、猫がほぼ全員集まります。

…課金ってすごいですね。猫まみれになり幸せでした。

 

 

さて、ここのところの仕事やら何やらで、偏見というのは物事をポジティブに解釈するときにも当てはまるなと思いました。

偏見って「あの人は怖い顔だから暴力的だろう」とか、普通は非好意的な偏った判断のことを言い、偏見された本人は傷ついたりするのですが。

「あの人は見た目がきれいだから完璧な人だろう」とか事実以上に期待されるのも迷惑なものらしい、というのを最近目にしたのです。

普通の人と同じ、欠陥はいっぱいなのに、勝手に期待されて、完璧じゃなかったらがっかりされる。「私はいつも同じなのに周りが勝手に喜んだり悲しんだりする」。それはそれで当人は傷ついているようなんですよね。

人間って見た目とか、イメージとかで簡単に認知がゆがむ。私もいろいろな事業や団体を見て、良くも悪くも、なんと誤認が多かったことかと自分にあきれています。

右だと思っていたことが左だったことはしょっちゅう。N極がS極みたいなこともいっぱい。同じものを見ても、自分の知識や経験が増えると、過去の自分は物事を真逆にとらえていたことに気づいてしまう。

脳って、なんて適当なんだと。

頭の中で架空の人物の物語を妄想するのは別に害がないかもしれないが、他人に関して世間に対して、イメージから何かを想像するのはマイナスだと最近よく思います。「こういうことをしたら悲しむんじゃないか」と心情をおもんぱかる話とは別。それはしなければ社会生活がうまくいきません。

「きっとあの人はこう行動してくれるだろう」とか「きっとああいう団体はこう対応してくれるだろう」とかいうところまでは勝手な期待。経験から来る予測ならもちろん意味がありますが、経験していないこと、経験者に聞いたことがないことに対して期待したら、がっかりするだけ。

世の中マイノリティーの集まり。総マイノリティー。イメージがぴったり当てはまる人など存在しないのです。「物は見たまま」。

そんなことをいまさら言っている私はお花畑で暮らしてきたのでしょうか。

「本当はあの人はこんな人じゃない」「指導すればよくなる」も自分とせいぜい家族まで。

「変えてあげよう」「力になってあげよう」なんて、本当に余計なお世話でまずは自分がしっかりしてからですね。

 

それにしても友人が辛そうだったので、どうしてあげたらいいのかな、などとまた考えたりもするのですが。

変えるとか力になる、は余計なお世話だとすると、やっぱり聞いてあげる、くらいかな。

話を聞く、共感する、で気持ちが楽になるようにできればと思います。

 

原田あやめ

 

 

 

 

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